Merits and demerits

ズームレンズの功罪





「ズームレンズの功罪」を検証しようと思い、実際よくよく考えてみると「功」はあっても「罪」はあまり無いかなと思う。じゃあ「ズームレンズについてで、いいじゃない!」と思うかもしれないが、私はズームレンズが嫌いなので「罪」のほうはあえて完全な独断と偏見で書かせていただく。

まず、「功」の方。ズームレンズが初めて御目見えしたのがいつなのか、私はレンズ設計者でも研究者でもないので知らないが、ある焦点距離から別の焦点距離を無段階で移動させることができるということは、ものすごく画期的だと思う。これは、ある一点から無段階で撮影者の意図を完全に汲んでトリミングできるということだ。例えば、ある被写体に対して、一番見せたいパースの付き方が A地点だとする。そのA地点から絶妙に撮影者の思惑通りトリミングできるというのはすばらしいと言う以外ないだろう。
その他、移動制限がある地点から自由にトリミングができるということ。ズーミングというまったく別のアプローチで撮影が可能だということ。レンズ交換によって失われる時間がないということ。と、まあ、ズームレンズの「功」を色々あげてみたが、実際に普段の撮影での身近に感じられる恩恵は「レンズ交換が無い安易さ」と「自分(カメラ)が動かなくてもある程度見栄え良くトリミングができるということ」だと思う。
だが、ズームレンズの「功」で一番素晴らしいのは、やはり「ある一定のトリミングでパースのコントロールを無段階でできる」ということだろう。

次に、「罪」についてだが、これはまったくもって、私に対しての「罪」なので、必ずしもこれを読んでいる方々には当てはまらない部分が多々あると思う。
まず、ある被写体に対して一番すばらしいアングルを突き詰めて探さなくなってしまうということ。「動かなくてもある程度見栄え良くトリミングができる」という「功」は、実際には、ある被写体に対しては、アングルを無限に探せるのに、私みたいな不精な写真屋が使用すると、ある程度様になるアングルとトリミングが見つかると、そこから先を突き詰めないでしまうという事だ。
これは、仕上った写真が良い悪いの問題ではなくて、突き詰めるという行為をしないので、どんどん写真に対する考え方が不精になってしまう。必然、被写体に対する考え方に、その場での多様性が生まれなくなり、写真にも多様性が生まれなくなってしまう。と、私は思っているのだがどうだろうか?
ところが、撮るべき写真のアングル、トリミングが既にきっちり決まっている時や、写真に対する考え方が天才的な写真家などは、この考えには当てはまらない。なぜなら、前者は「ある一定のトリミングでパースのコントロールを無段階でできる」という「功」が最大限に発揮される時であろうし、後者は、そんな考えなくして、まったく自然に無意識に写真を作っていく。要するに私みたいな間違っても天才から程遠いカメラマンは、ズームレンズを使うのはやめた方が無難という事になる。
今回、レンズの解像力とディストーションについて触れなかったのは、必ずしもズームレンズが単レンズに追い付いたというわけではなく、私自身が最近のズームレンズをまったくテストしていないという事実があるにすぎない。只、まったく見ていないわけではないので、多少の批評をすると、一世代前のズームレンズと比べるとかなり良くなっている。20万円前後の標準ズームレンズの50mm域などは、かなりの所まできていると思う。この辺の検証もしっかりとやってみたいのだが、先立つ物がないとなかなかどうして。まあ、お金持ちになったらやっときます。(2003.10.22)



三沢達則[shooter@mue.biglobe.ne.jp]


BACK
inserted by FC2 system